石牟礼 道子 著
『妣たちの国―石牟礼道子詩歌文集』(講談社文芸文庫)
解説:伊藤比呂美
「すべてを呑み込んで生かしてもどす声」と題して解説を執筆。
ここでも、人の生きざま、暮らしが、人々の声によって語られるのですけれど、わたしたちの耳に聞こえてくるのは、たったひとつの声だということです。
個々の声は、石牟礼さんに吸い込まれ、石牟礼さんの声になって、外に出ていく。人の声をきくと呑み込まずにいられない。声呑み妖怪のようなかたです、石牟礼さんは。P227-230
わたしは、「わたし」についてなら、考え慣れております。いいえ、むしろそれしか考えてきませんでした。わたしはだれであるか、わたしは何をしたいか、ということが生理的にも、文化的にも、「わたし」を出すことにのみきゅうきゅうとしてきたような気がします。ほんとに、そればかり。声は、それをお見通しだ。P239
同書「死民たちの春」(1971)から、その「声」のぬしである石牟礼氏の「あこがれ」をかいた一節。
まことの地獄をのぞきみたれば
片方のまなこは心願の国のみ
仏に捧げまいらせ候
いまひとつのまなこあれば
あこがるるなり
そのひとつもていまだかなわぬ
生類のみやこへのぼりたく候
二人は違うことを似ていなくもないスタイルで書いてきたと思う。伊藤比呂美はそういう石牟礼の文業にたじろぐことなくたいしている。ひとっところから「たったひとりの自分」をかきつづける伊藤と、自在に「生類のみやこ」を幻視する石牟礼。石牟礼道子論というよりは伊藤による自分の中の石牟礼性の表現とでもいったほうがよいものになっている。けして「表出」ではなく。ここでもわれらが詩人は率直である。