「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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丸山眞男の実質的デビュー作『超国家主義の論理と心理』(『世界』岩波書店1946.5)。これによって彼の名前は知られるようになり、なおかつ現在までつづく名声がある。のかどうかは正直わからん。丸山氏は1945年9月に復員。『丸山眞男集〈第3巻〉』(岩波書店)に収められているがじつに全20ページ。戦時日本の論理を探りそこにあらわれた心理を暴く日本が誇るインテリの登場。 従って国家秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。P22 この言い切り。下線部分は元は傍点。 「私事」の論理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に進入する結果となるのである。P23 「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体真善美の極致たる日本帝国は本質的に悪を為し能わざるが故にいかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである! P25 これはしかし学者の言葉なのであろうか。「微妙に交錯」とは。。。まあ言わんとするところはわかるんだけど。 彼らに於ける権力的支配は心理的には強い自我意識に基づくのではなく、むしろ、国家権力との合一化に基づくのである。 P27 従ってここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的職能よりも天皇への距離にある。 P28 天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於いて万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心には点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦横の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。 P35 たいへんわかりやすい。図にすらできるニッポン人民の心理。まるで浅田彰の『構造と力』を思い出しますな。日本人はこういうのに弱いのだろうか。すなわち天皇陛下はその人格ではなく万世一系の・・・。いやそれじたいには価値はないのである、と丸山氏は言うわけなんだな。 丸山眞男という人の論文? に私がイマイチ入り込めないのは基本的に日本人をヨロシクナイモノとして見ているように思える点にソンしている。立脚点。どこに立っているのか。それが問題だ。基本的にニッポン人民は丸山氏がいうように弱弱しくあいまいな心性をもつてゐる。しかしそっからだ。そこからはじめるのだ。なぜならわれわれこそがその縦軸と横の広がりを成立せしめているからである。「論理と心理」なんとわかりやすい概念だろうか。 「二千六百年前の事実がこれを輪切りにすれば中心の年輪として存在してゐる。だから神武天皇様の御代のことは昔話としてではなく現に存在してゐる神国日本の使命と国民の覚悟」(山田孝雄『中央公論』1943.9) 戦中の代表的な考え方なのであろうか。もちろんここで「現に存在してゐる神国日本の使命と国民の覚悟」と言われたとき「神国日本の使命」と「国民の覚悟」という2つのものがあたかも1つであるかのように自然に、または無意識的に結び付けられていることが重要なのであるだろう。 以下、丸山氏のまとめ。 日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。 これが丸山氏の絶唱であるとするならば美しい。が、しかし私にはあまり気持ちのよくない限定されたプロパガンダのように聞こえてならない。その「絶対性」は本当に失われたのだろうか。いったいどこから「自由なる主体となった日本国民」が現れてくるのかわからない。この結論部分はあまりにもわかりやすすぎるテキトーなものだ。まるで戦時中はどこか日本国民とはべつの場所にいて、べつの論理体系でものを考えていた人が、自由にものをいえるようになったからさも「当たり前のことだが」というような口吻でいっているような感じだ。 ここから、なにかが始まるのだろうか。縦軸の絶対性はまだ失われてはいないだろうし、横の無限の広がりも同じではないだろうか。ただそれは「八紘一宇」のまた「大東亜共栄圏」という目的を失っただけで、その構造はなにもかわってはいない。 ただ、それはたとえばペリーの黒船のようになにかが突然どこかからやってきてわれわれの世界を変えたけれど、われわれの内面はまったくかわってはいないというようなもの。この丸山氏が示す「まったく別の体系からの視点を示す」という態度はあたかも優れたインテリのとるべき態度であるかのように思われている節があるけれども、筑紫哲也とかさ、それはただ当事者たる日本人になることをこばんでいるだけなのではないだろうか。権力の中心にいることなく、心のそこではそれを蔑みながら発言する輩は多い。そういう左から右を一瞥するような視点はじつのところわれわれをなにも変えることはない。 丸山氏のフルトヴェングラー崇拝は有名だけれど、それがアフォらしいのはあまりにも無邪気に「音楽」というなんの現実性もないものを自分の内面性にひきつけて嬉々としておのれのおかれた立場を省みないからである。彼の有名な『自己内対話』も、そうした自分の内面性をまったく変革する気はない、それでお前らになにも言われる筋合いはない、という他者否定の彼の内なる論理を、彼自身がまったく否定できていないことを如実に示すからだ。
by maru-eo
| 2005-02-03 22:01
| 哲学および宗教的なこと
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