「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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つじあやの 2005.4.6 つじあやのはもう完成してしまっている。そうなのではないか、きっとそうにちがいないと思ってはいたが、このヴィデオを観て、やっぱりそうなのだ、と得心した。Jポップは本来その成り立ちからシテ、そこに属すべきミュージシャンはどこまでも完成することなく永遠に「きみ」のことをうたいつづける「ぼく」や「わたし」であるはずだった。が、つじあやのにおいてはそうではないらしい。 彼女の曲は一見(聴)、ただのその辺にあるウララカノー天気ソングのように聞こえる。それはしかし大間違いである。ウクレレを抱えて、細い長方形の眼鏡をかけて、すべすべ肌だからといってカルいと判断するのは彼女の聴き手としては、絵の描けない絵描きですと言っているようなものだ。試しにここに収録された何曲かでもよく耳の穴をかっぽじって聞いてみればいい。彼女がいかにアブノーマルというかアヴァンギャルドというか、マニアック、ファンタジック、つまりは一筋縄ではいかないうた歌いであるかがわかるから。しかも映像つきだから君の耳よりも100倍賢いだろう両目が、逃げ道を塞いでくれる。 つじあやのが歌ってきた感情をひとことでいえば「きみへの思い」である。デビュー以来、春になれば春風に冬であっても春風のようなものに、託して彼女はきみへの思いをうたいつづけてきたのであった。というか、きみへの思いを商品としてうたに変えて売ってきたのである。売る人がいて買う人がいる。それを媒介するのは個人の思いであり、その思いは基本的に「ぼく」から「きみ」へ向かう、という「ぼく・きみ」であることによって、つじあやのもまたひとりのJポップ・ミュージシャンなのであった。しかもかなり純度の濃い。それであった。 しかして、めんどくさいから一曲しか例をあげないが「桜の木の下で」を聞いてみるがいい。もうめんどくさいから一言でいってしまうが、彼女は「きみ」をうたい、「きみ」との関係を志向しているように聞こえながら、つねに「きみ」はいない、のである。どころか、彼女のうたはつねにうたを向けているはずの当の「きみ」を排除しつづけるさえする。というよりも彼女がうたい、誰かが彼女のうたを聞きつづけるかぎり「きみ」はうたわれながら、不在となる。 桜の木の下で、風に吹かれながら、誰も知らないうたが流れる、といったようなことを彼女は、このDVDでウクレレを持たず! ジャニス・ジョップリンばりに熱唱する。いやうたの中身からいって絶唱といってもよいかもしれない。つねに居もしない、いるはずもない「きみ」を待っているというような倒錯はJポップであろうかという疑問も浮かぶが、そうした彼女のうたにこもった真の思いが聴き手につたわらないままに聴かれつづけるとするならば、その時点ではりっぱなJポップ商品である。買われ、消費されるうたとして、は。 正直、つじあやののような存在がこうして現れるということはおどろきである。用いられるボキャブラリーは他の誰とも変わらず、また他の誰よりもシンプル。で、あるにもかかわらずどこまでも他とは違う隔絶した場所に彼女は居る。そこはたったひとりで、たったひとりでいることを志向しつづける表現者だけに許される至福の、完成されたディストピアであるだろう。 なにゆえ彼女がそのような境地に至ってしまったのかを、生れた場所で、育った環境のなかでカメラを回し、言葉を吐きさせながら、この作品は一向に判明できない。しかし、それも当然のはなしなのかも知れない。だって、そんなうたをもう何年もプロとしてうたってきた稀有のうたい手にこれだけ存分うたわせといて、目の前に居るからやら生れた場所だからなんて理由で、本当のことが聞けるはずはないんだから。話を聞いたような気になってしまっているあいだに、彼女のうたはずっと遠くにいってしまっているのだ。
by maru-eo
| 2005-05-08 16:25
| つじあやの
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