「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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藤沢周平原作の映画「蝉しぐれ」を日曜日に試写会で観てきた。長渕剛作品なんかで知られる黒土三男の脚本・監督。 映画としては10点満点で4点をつける。まず脚本がこなれておらず、場面転換は唐突だし、会話はいかにも面と向かい合った1対1でなされるから不自然きわまりない。演技も染五郎、木村佳乃らの主役級は良いとして、子役が棒読みでひどい。ただ、冷静に考えるとまったく理解できない言葉を吐いて死んでいく緒方拳は神サマのようなキラキラ目でちょっと出色。 ようするに原作を料理しきれなかったのだろうと思う。ありがちなパターンである。映画を観ていなくて脚本だけ読んでいたウチの同居人は「さっぱり意味がわからなかった」そうだ。そりゃあれをト書きと台詞だけ読んでも理解できないだろう。ただ、実際観た者としてはそうした意味のわからなさのもうひとつ逆の面も言っておかなくてはならないだろうと思う。 「20年互いに思いつづける」プラトニックな心の結びつきがテーマである。だからその長い年月を描かなくてはならない。しかも表面上は斬り合いなんかもありはするけれどたいした見せ場はない。訥々とした生活の中で、着々と流れている時間を描くために黒土氏がとりいれたのが、膨大な自然風景のカットを挟み込むことである。 ある出来事があって終わる。暗転したのち突如として画面を一面の吹雪がおそう。かと思ったら満開の桜のカットが入り、いつのまにやら万緑のなか蝉しぐれが聞こえ始める・・・。全編こうしたシークエンスを繋ぐ自然風景のカットに満ちている。脚本や練り込まれた演出を求めて映画を観ていると、まったく杜撰に思え不愉快きわまりないのだが、でも、ラスト近くになってこれはちょっと毛色の違った作品として観た方がよいのではないか、と思われた。 美しい自然がある。そのなかで生きている人たちがいる。なかにはカルク手を触れただけで20年思いつづけているワカモノたちもいるだろう。それだけのこと。黒土氏は、この「それだけのことだ」ということを描きたかったのではないか。 理不尽な理由でハラ切らされる父親の無念も、その記憶を背負って生きつづける息子も、貧しい生活から殿様のテガツクことで抜け出した娘も、いろいろあるさ。思うこともあるし、結ばれないこともある。そういうもんだ。いや、そういうことも実際あるんだし、あったからといってなにをどうできるわけでもないこれは人間の感情とか主義とかではない。言葉や生活を越えた視点がなければ、捉えるtことのできない、なんというか事態である。 自然の風景を主役として観ること。その移り変わりのなかに容易に消えていく人の思いや人生に認めること。 だから、この作品はことさら場面に意味を求めずに、人と人とのあいだで行われていることも、もっといえば人の生き死にさえも度外視して観るべきなのかもしれないのだ。そうすると、山々の緑や陽の光や、風に揺れる稲穂はただのベタなイメージ映像の寄せ集めではなくなるだろう。 ラストの黄金に光る川面で、浮かぶ船に座っている染五郎がやがてカラダを横たえていくときのあの、言葉にすべきではないのかもという思いはきっとまちがいじゃない。この作品はきっと、風景が人の思いを越えていくという事態をフィルムや画面に封じ込めるために撮られた映画なのだ。だから染五郎の姿が見えなくなるのは映像的に、圧倒的に正しい。 こういう事態をもし言葉にしようとするのなら、残酷とか切ないとかの紋切語でも、宣伝コピーでもなくて、作品と拮抗するだけの表現の言葉が必要になるだろう。ちょっとムリヤリくさいかも知れないが、そう考えてみると、なんとも貴重な経験をあたえてくれた映画だったと言えるような気がする。ってことを味わう為にはやっぱりヴィデオじゃダメで、すくなくともオノレの身長よりも大きなスクリーンで観なくてはならなくなる。今週末から公開ですよ。
by maru-eo
| 2005-09-28 01:43
| 本・映画・芝居
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