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「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。 批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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(前略) 私伸ではありますが この漫画の協力者・ブレーンとして 物語の細部のディティールに尽力してくれた「人妻から 核兵器まで」の広く偏った知識の貯蔵庫 樋口知之氏が昨年 他界しました 故人のご冥福をお祈りし 本書の刊行が ささやかな ご供養となることを願って あとがきとかえさせて頂きます 平成十八年九月十五日 新井英樹 エンターブレイン発行、『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン⑤』あとがき 砧大蔵 ウィキペディアハイパーリンクで飛べない場合、検索エンジンで「砧大蔵」を叩いてください。 日本推理作家協会会報 砧大蔵スレッド(非公認) 日本推理作家協会・訃報 ■答えは、いつもそこにある 内村君(でいいのだっけ?)、こと内藤君へ。 きみの文章はいつもながら素晴らしい。きみはつねに問題点をひとつ仮定し、そこに向けて論理を組み立てるという、文章作法の基礎をじつによく分かっている。しっかりと実現していく様は、僕のような、問題を解決したいとじつは思ってもいないまま、それにもかかわらず何かを書かずにいられない人間からは大変、うらやましい。 きみが遡上にあげてくれたのが、しょこたんことの中川某の「空色デイズ」。きみの「上機嫌」に関する問題提起をうれしく受け止めた。 あるヒトの歌がうまいのかどうかはとてもコムツカシイ問題だが、ひとこといえば、アイドルとして彼女の歌唱力はイマイチである。加えて、オタクの歌唱にありがちな、過剰な感情移入も少ない。と思う。 今後にもつながるものとして、ちょっと言えば、いわゆる商業的な歌(つまり商品としての最低限のウタ)では、聴いている者を自然に聴かせる、つまり、聴いているということを忘れさせることが重要である。時間的な表現である歌は、とりあえずリズムが基本である。一定のリズムに乗り、決まったメロディーを遂行、実現していく、というのが基本である。うまい歌はまず、一定のリズムがあることを忘れさせ、その上でメロディー、音の変化を味あわせるだろう。 中川翔子のうたはリズムに負けている。オレは『空色』ではギターが主役かと思ったよ。ほかのシングルも同じだが、まあしかし『ロマンティックあげるよ』は普通レベルだ。ここに大きな問題がある。彼女が上機嫌なのは、歌い始める前と、歌い終わった後。オタク・ライクなマルチタレントであり、オタク的な話題を話しているときだろう。『ロマンティック』は素人の、残念なことに若干オタクくさくないカラオケであった。 しょこたんが、うたがうまいとして、商業的に歌うことが許されるヒトとして、うたうとき、歌いたい内容がじつはない。ということがとてもJポップ的だと思うのだ。少なくとも歌を歌うヒトとして、彼女は上機嫌ではない。 疲弊したTVアイドル業界で、割に賢い、いろいろ苦労もあっただろうし事情も分かっている、わりに愛らしい上原さくらバージョン2みたいな彼女の存在価値ずいぶんあるだろう。そうして、彼女の登場はずいぶん増え、異常ともいえる低レベルな07年の紅白にも出ただろう。それらの事実に対して、彼女は上機嫌を振る舞うが、ほんとうのところ上機嫌なのかどうか。たいへん疑わしい。 「グレンラガン」は、個性的でわりに誠実な、よくできた王道ロボットアニメだったのだろう。最終回を4分観たら、驚くほどイイ具合でびっくりした。しかし、日本ロボットアニメの偉大なる歴史についてはきみにのほうがよく知っているから、多くは言わん。 けっきょく、歌手としての中川翔子は、きわめて低空飛行だ。とても大成功はおぼつかない。僕はそれをたいへん残念に思う。これまでの変遷をみていると「鬼太郎」もさしてかわらんだろう。彼女が歌を歌うモチベーションがなにもかわらないのなら。 彼女が魅力的な歌を歌うにはまず、歌う自分を規定すべきだ。答えはいつもここにある、というのは少し違う。渦中にいる当人が「ここにある」というのは、できすぎた話だ。答えはたぶん、本人が意図しないどこかにあり、他人に「そこにあるのだ」と指摘されるのだ。 どこかのだれかが創った、偉大な物語に委託した自分はもう充分なんだ。そうではなく、目の前にいる誰かと、なりの物語をこそ求めたい。そうした物語や、ぼくやきみを追い求めるJポップという一つの流れが、ここ数年停滞していることはきみも知っての通りだ。だが、そうであるからといって、作品評価をテキトーにこなし、その上で、いかにもありうべくように、ヒトの表現を査定する、それでは、今日にも明日にもいなくなるかもしれない「きみ」を措定して、強く表現をしていこうとした、(仮に)Jポップと(名付けられた)いう意識や意欲はどうなるのか。 ただ、この曲が偉大なのは主語が「僕ら」でもあるというところだ。ぼく・きみに終始するJポップの歌ではなかなかいえないところをしっかりと歌っている。だが、「僕ら」がいるのはどこか。「きみ」と同じなのか、あるいはきみと同じならよいのか。 「僕らなりの答え」が「いつもここにある」の言い切れるというならよい。 「昨日よりも、今日、僕は僕の生まれた訳に気付いていく」のも素晴らしい。 「その背中だけ追いかけて此処まで来た」ならよい。 皆、誰でも、一人一人が心底そう思うのなら良いんだ。何も信じるものがない、と思った世代の僕らが思った、信じるに足るものが、そこにあるのならよい。 しょこたん(下級生だが)については、そうは思えん。上機嫌とも思えん。うまくもない。くそったれなうたを、アニメとかなんだとかの足かせ手かせ、手練手管で、そこそこ良い、というのはそろそろやめにしないか。なにもいいことはない。 もういい年のオレがきっとうまくいえればいのだけれど、正直うまく表現できん。なんの10年間なのだろうと思うけど、しかたない。 こりゃ、あまりにもひどいな。 萩尾望都 小学館2007.8.24 澁澤龍彦を巡る文章に藤川義之の「上機嫌の思想」というものがある。 永らく日本文学の主流は「不機嫌の思想」に支配されていたが、そんな中現れた「上機嫌の―」を持った文学者が澁澤というわけだ(かなり記憶は曖昧!)。 ここでいう不機嫌の思想とはいわゆる「私小説的なるもの」ということだろう。 たとえ過度に演出され創作された「自己」であろうとも、私小説には暗澹たるニヒリズムの影がどうしても付き纏ってしまう。 この意見には概ね賛同するわけだが、ことは文学に限らない。 私小説的なるもの、の系譜に位置するこの国の大衆歌謡、さらにはJポップにも「不機嫌の思想」は色濃く現れている気がする。 演歌やフォークソングの大半がそうであろうし、アムロちゃんやあゆといった歌姫はなぜだかいつも眉間に皺を寄せ、何かに怒っているかのようだ。 勿論、上機嫌の歌い手もいるにはいるだろう。 具体名を挙げろ、と言われれば清志郎や民夫、陽水あたり・・・? 若い女性では宇多田ヒカルくらいしか思いつかないのが、なんとも面白いのだが。 毎度前置きが長い。 で、しょこたんこと中川翔子のこと。 彼女は今まで述べたように日本では希少価値に値する上機嫌の歌い手である。 少なくとも3rdシングル『空色デイズ』に関してはかなりの上機嫌だ。 しょこたんは「オタク(主にアニメ・特撮に対する)」という属性をメディアにおける自己のキャラクターの中心に据えたアイドル(Wikiによるとマルチタレントとのこと)である。 「上機嫌」という気分なり思想なりは、ある種の余裕、もっといえば諦観というものがないと発ち現れてこない。 中川翔子に数多のアイドルに見られるような商業的切実さが希薄なのは彼女がやはり「真性」のオタクなのであろうからで、サブカル的なものに対する自家発電のごとき情熱は「売れなくなってもアニメや特撮あればそりゃそれで」という明るさ=「上機嫌の―」を生み出すことに成功している。 『空色デイズ』は今年テレビ東京系にて放送された良作アニメ『天元突破グレンラガン』の主題歌。 先述した「上機嫌」さを後押ししている要因として、アニメ好きのしょこたんがアニソンを歌うという二重性が勿論あるわけだが、グレンラガンがかなり意図的に「懐かしの王道ロボットアニメ」を目指して制作したことも幸いした。 強大な敵とその試練に挑む人間たち。少年の成長や仲間との絆、闘い。 その構造は神話や伝説のような叙事詩形式に近づく。 当然、その物語を結晶化した主題歌も叙事詩として機能するわけで、「ぼくきみ」に代表される内的な感情や思想を伝える抒情詩的なJポップの世界観とは正反対のベクトルを有したことが、楽曲に俯瞰的な広がりを与えている。 また、「大切な人の死を乗り越えて、前向きに生きる」という「グレンラガン」および『空色デイズ』のテーマは、オタク・中川翔子とは別の、シリアスな自己としての「ミュージシャン故・中川勝彦の娘」という一面も垣間見せ、より重層的な魅力が付け加えられているといっていいだろう。 新年に発売されるニューシングルもTVアニメ『墓場鬼太郎』のテーマソングとのこと。 小粒だが、ポップソング業界におけるアニソンの新たな可能性を思考させてくれる存在として、しょこたんは今後も非常に興味深いわけなんである。 と、ここまで随分と御託を並べたててきたわけだけれど 「オタクでアイドルだけど結構歌うまくね?」という一言で片付いてしまうかもしれない。 ・・・・ギザ、カナシス! 追伸 紅白歌合戦出場おめでとうございます。 『空色デイズ』 作詞:meg rock/作曲・編曲:齋藤真也/歌:中川翔子 発売: 2007/06/27 [ソニーレコード] 投稿:内村亜希子
モンちゃん100人おったら世界 潰せるやろ。 @@@@@@@@@@@@@@@ 怖がるな!! 逃がせば また 人が死ぬ!! 選択しろ!!恐るるべき「死」はどっちだ!? @@@@@@@@@@@@@@@ そら 人は 人やから人も殺すで、殺すゆうことがしょうみ一番の罪なんやろか? 殺しに手ぇ染めた奴 大半 壊れてへんで、いい殺し 悪い殺しの差があるんか? なら殺して壊れへん奴は鬼か? 壊れとるから殺すんか? @@@@@@@@@@@@@@@ 私はすべてを鑑みて、殺せと言っているのだ。 その「殺しぇ」はメンツがらっスか!? それとも殺意がらっスか!? @@@@@@@@@@@@@@@ 今月3日 ジブンさ子供が産まれました、女の子っス!! でも触れちゃなんねえ 触れる資格はねえと思ったっス!! 勿論 犠牲者への負い目も罪悪感もありました!! それでも 悪い頭なりに考え込んで そしてジブンの心さ座り込んだ核なるものが見えてきたっス!! @@@@@@@@@@@@@@@ 先に生まれだ者がこれからの者達に人間は素晴らしいって伝えねえで おメ どうすんだ!? @@@@@@@@@@@@@@@ 死ぬなや。生きとったらええがなマリアっ!! @@@@@@@@@@@@@@@ 冷たい唇すなっ!! 生かしたるから生きろやっ!! @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ ネームとはマンガの文章部分。日本が世界に誇るべきマンガ表現の、ここ10年を代表する作品にして、希代の「会話マンガ」。 『THE WORLD IS MINE』という作品の最大の特徴は、会話やコミュニケーションがこんなにも溢れていると言うことだろう。それ以外は、作品の分析や解剖には役に立っても、この作品を生かし続けることにはつながらない。 これだけの人が死にながら、これだけの人が生きていると感じる作品は少ない。 これだけひとつひとつの言葉に返答のある作品はめずらしくはないか? この作品の中には、僕らが生きていて、これから生きてくなかで発しているかもしれない言葉が詰まっている。 この言葉と応答や返答の洪水を、受け止め、それぞれの中で鳴らさなくてはならない。 この作品に似たような、まるでマンガのまねみたいな現実が生じたとしても、それをマンガでみたなあというだけですまさないために。 魚喃キリコ 2007.8.590年代後半を代表するニッポンの漫画家のひとり。その最新作。18の短編。それぞれの初出が書いてないので、実際に新作なのか既発表の作品をまとめたのか、はわからない。 まあでも、久しぶりのナナナンキリコであって、うれしくて即座に買った。鉄拳やってる先輩の横でちあきなおみをアイリバーで聴きながら読んだ。久しぶりでマンガで泣きそうになった。 この人は青林堂とかマガジンハウスから2冊の素晴らしい短編集を出して、おそらく一部ではその時点で傑作であると認められた。 そこから中編や長編を描いて、なかなか苦戦したのだと思う。なかには描けば描くほど精神的にキツくなるという、まあ表現する人なら誰にでもありそうなことを、悲しいくらい着実に実践したのである。 そのうちのいくつかが映画化もされたので、名前は有名になった。いつかにはNHKに出たりもした、だけれど、わかりやすくいえば、初期の傑作2つを超えることは難しいようだって事で。 この人の作品の特徴は、閉鎖的な社会関係における切なさを、さりげなきけれどもじつに的確に描き出すところある。その多くは恋愛を軸にしている。だから、短い作品の方が剥いているというのは当然と言えば当然。長編で、自分の失恋みたいなのを書き続けていると、細かい切なさだとかにフォーカスしないといけないわけなので、そりゃ悲しさのドツボみたいなところにはまりやすいだろう。 まあ、この最新作を見ると、うつであるらしい。でも、酒も飲み、次なる作品の企画を思いついてまだまだ才能は尽きてないと明日を楽しみにしたりしているらしい(P134)。薬の量も減ってきているとも描いている。 この本はエッセイマンガではない。ちゃんと一つ一つの作品に題名があり、おのおのに彼女の思いが込められている。線は太くて、絵は少なめ。でも、ちゃんといつも通りにしっかりと作品の並べ方とかには気が配ってあり、うれしい。中堅作家が、もう一度、始まりにあった感情を振り返って描き出したという風合いがある。 彼女は、そのアネゴ的な(よく考えてみると、このイメージ自体がどうして出てきたのか、あいまいだけれど)雰囲気に反して、大人になった自分を受け止めることに真剣だ。わりにちゃんと大人になっちゃってる、というか。そういうことへの微妙な感情の機微ってのは、とても2000年代のいまこそ、ある種の表現者の主題となるんだ。 あたしって 幸せなんだなアと ふと思うことがある。(P130) 昔の苦しかったことを 思い出しそうになっても もう思い出す前に思考を ストップできたとき。(P134)「こうふく。」 岡崎京子が、豊かすぎる漫画家としての才能を駆使して、すごく空虚な精神世界を大々的に描き出した後、ナナナンキリコはちょっとした漫画家的な才能を注ぎ込んで、小さくてせつない世界を作品に変えてきた。ナナナンキリコの世界はとても小さい。でも、だからなんだってえの。そういう時代には、そういう表現者が必要だ。ナナナンキリコはたぶん、表現者としてそういう事実に気づき始めている。2000年代には、岡崎京子における浅田彰みたいな華々しい言論者もなく、理論的な応援の言葉はすくないだろう。でも、だからなんだってんだ。ひやかしじゃない読者がゴマンといるぜ。がんばれナナンキリコと。がんばっとるぞ、オレたちの時代の表現者は。オレが流しそうになった涙はきっとそういう事実の確認だったのだ。 彼女は世田谷に住んでいるので、地名がいくつか出てくる。いまも夜な夜な下北で酒を飲んでいるのだろう。2000年代の世田谷が生んだマンガとしても読んでも面白い。 世田谷美術館で小さい展覧会でもやらんかな。 この映画版は問題オオアリ。TVアニメ版を観たことのないヒトは、これだけみてもさっぱり内容がわからないだろう(3部作をゼンブみなけりゃわからないだろうということではなく)。まあ、もともとわかりにくすぎる内容を、むりやり短くしたのだからしかたないと言えばそうなのだろう。だが、映画版がかなり良い出来だった『機動戦士ガンダム』と比べてみると、こちらはずいぶんよろしくない印象を受ける。 そうした意味で「ハイザックの作画がスバラシイ。こっち(映画版)の方が好き」というヒトもいるのだけれども、オレは最近の(?)アニメ絵が好きではないので、そうは思わない。 この『Z』は映画化した理由が見つからないというのが正直なところだ。映画版『機動戦士ガンダム』3部作がスタンダードとなりうるのに比べて、こちらはあまりにマニアックな作品になってしまった。 『ガンダムⅡ 哀戦士』 ランバ・ラルが死に マチルダが死に ハマン(?)が死に ミハルが死に リュウが死ぬ、ハヤトと殴る合うアムロに、セイラが やめて! そんなことしてなにになるの!? オデッサ作戦に関して、すべての戦死者に対して、総員、敬礼!
やっぱり「ガンダム」はすごい。特にファーストガンダムと呼ばれる『機動戦士ガンダム』は。 個人的には「Z」のほうが想い出もたくさんあり好きだけれども。 大人になって、これは子供のころオマエはオタクだ、と言われ続けたことを考えると、本当に感慨深いことだが、(なぜなら、大学の頃からオレの回りにはオレの数百倍ごっついオタクがたくさんいるから)、野宮で、ある年代の人とはガンダム話をしておけば、けっこう盛り上げることが多い。2人以上で、容易に一つの話題に盛り上がることが出来るというのは、他には世代により第2次世界大戦とか、ちょっと経るが「あしたのジョー」とか、だろうか。まあ、オレのいる環境が偏っていることもあるかも知れない。しかし、これは飲み屋でのはなしである! ガンダムを考える!(30目前でも、やっぱりオレも、まだまだ考えるというのもなんだか、いやはやだけれど)うえで、最も考えるに価するのが、シャア・アズナブルであろうと思う。 『機動戦士ガンダム』は、若いシャアの考え方をよく知ることのできる、かっこうのテキストだ。 映画用に編集されたファーストガンダム3部作のラストである「めぐりあい宇宙(そら)」は、シャアという大人物を、脇役として終わらせた最後の作品だろう。まあ、主人公アムロのライヴァルではあるけれども。 シャアのことはひとまずおいといて・・・ この映画のラスト15分ほどは、ニュータイプであるアムロが使い物にならなくなった兵器ガンダムの中から、「ホワイトベースのミンナ」のそれぞれにメッセージを送るところから始まる。 このラストが感動的なのは、アムロという希望的な人物が、未来の希望である、カツ・レツ・キッカという子ども達に最初に発見され、導かれ、仲間と再会する、からだろう。 平和とはセンソウのあいだの状況に過ぎない、とかなんとか、オッサンや年寄り達がいうだろう。しかし、そうした物言いがオレをゲンナリさせるのは、まったく未来に向けた積極的な思考に約多々無いどころか、なんとなれば思考停止に追い込もうとさえしているように思うからだ。 ごめんよ、僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんなに嬉しいことはない。わかってくれるよね。ララァにはいつでも会いに行けるから。 アムロは臆病で、ぢちらかといえば消極的で、一言で言うとニヒリストである。アムロはセンソウに意向と思って至ったのではないけれど、そこに巻き込まれる理由がまったくないわけでない、ことも知っている。 アムロは考えるよりも、反射的に動く人である。アムロはニュータイプである。だが、それが自分の全体であるとは思っていない。アムロはつねにふつうの人間であろうと努力する。アムロの考えるフツーの人というのは、一般的な人類のあるべき姿、とアムロが考える、ようなものだ。それはなにも特別ではない。いわば、アムロはニュータイプという、すこし人間を超えたところから、そこから人間に居たろうとする個人である。 それは一言で言うと、希望的な人間である、といえるだろう。アムロはヒト、人類であることに希望を観ている。そうした人々とともにいられる自分に嬉しさを感じている。 しかし、アムロの限界もまた、そこにある。彼はつねに孤独な個人として連帯する仲間を求め、そうした場を中心に行動する。ファーストガンダム時のアムロは、すくなくとも、有能な一人の戦士に過ぎない、アムロはそうした自分の社会的立場については、超えようとは思っていない。 アムロだけを主人公としていたならば、ガンダムは、まあエヴァンゲリオンレベルのある世代に限定された魅力的な物語で終わっていただろう。それは、つづめていえば、個人とその仲間の感情を主軸にした物語でしかないから。エヴァはそれだけを描くことに、そこにプラスして、庵野秀明という作り手の苦悩を注いだのだけれど、終始しただろう。 詰まらない言葉で言えば、ガンダムは「連帯を求める人間関係」を持っている。エヴァには当然それはない。そして、そんなベタなことをほっとくとして、ガンダムが偉大なのは、そうした、人間達の物語に社会性を与えたところにあるだろう。 その社会性を個人として代表するのが、シャア・アズナブルである。 ********************* シャア・アズナブル大佐 本名;キャスバル・ダイクン ジオン・ダイクンの息子。 若いシャア ララァ:そういう言い方キライです。大人っぽくって。 シャア:そうだな、気をつけよう。 ニュータイプがニュータイプとして生まれ出る道を造りたいだけだ。 (ガルマの死で虚しくなり《それはギデン・ザビも同じ》)父の言うようなニュータイプの時代の変革があるのなら観て見みたい。それが自分の野心です。 新しき時代のために。 センソウと政治 「自由のための闘いとしてしか理解してないから」セーラ アムロ:それは理屈だ シャア:しかし、正しい者の考え方だ 人は流れに乗ればよい だから、私は君を殺す シャア:体を使う技は、ニュータイプといえども訓練をしなくてはな アム:そんな理屈! いまララァが言った。ニュータイプは殺し合いの道具ではないと。 いまという時代は、ニュータイプを殺し合いの道具としてしか使えん。ララァは死ぬ行く運命・・・シャア シャアもニュータイプ、なのだけれど・・・ なら、同志になれ。貴様を野放しにはできんのだ チャンスは最大限に生かす、それが私の主義だ ・センソウは忘れろ ・アムロ君が呼んでいる。アムロとセーラをくっつけて、最大限に利用しよう しかし、そう簡単にいくものか・・ 孤独かつ、きめ細やかに細部を観ることの出来ないシャア。 セーラ:ミンナのところへなんか行けない。だって・・・。 生き延びたって兄さんが・・。 セーラはシャアの圏内に、か、その下にいる。こうした視点が(や思考や、ゆくゆくは思想が)シャアを強大なものにする。シャアはこの後、個人的には変化するように思われるが、基本的な思考は先鋭化していく。しかし、それはシャアを支持する者たち全体の先鋭化でもある。 シャアという人物は、いつでも、ある種の、過渡期的人物である。 対するアムロは、じつに、常にリアクション的である。そして、いつからか、自分なりの大きな思考を育てるだろう。しかし、アムロもまた、孤独である。 思い切って言ってしまえば、アムロとは希望的人物である。アムロはつねに出会いを求めている。そして、その時々で、自分の思ったことを、かなりっそっちょくに表明する。 だが、たぶん、アムロの一番、弱いところは、彼には目的がないことではないだろうか。 殺し合うのはニュー対ぴじゃないででしょ? そうだな。 どうしたらいい? アムロとは、いつでもあそべるでしょう? 見えるよ、ララァ。 and now.... in anticipation of your insight into the future. 生きるか死ぬか、それは誰にも判らなかった。 確かなことは、美しい輝きが一つ起こる度に。何人か、何百人かの人々が確実に宇宙のチリとなっているということだ。
詞:井萩麟 曲:井上大輔 哀 ふるえる哀 それは別れ唄 ひろう骨も 燃えつきて ぬれる 肌も 土にかえる 荒野をはしる 死神の列 黒くゆがんで 真赤に燃える 哀 生命の哀 血の色は 大地にすてて 新たな 時をひらくか 生き残る 哀 戦士たち 荒野をはしる 死神の列 黒くゆがんで 真赤に燃える ※死にゆく男たちは 守るべき女たちに 死にゆく女たちは 愛する男たちへ※ ☆何を賭けるのか 何を残すのか I pray, pray to bring near the New Day☆ 哀 かなしみの哀 いまは 残るだけ 名を知らぬ 戦士を討ち 生きのびて 血へど吐く 疾風のごとき 死神の列 あらがう術は わが手にはない ※Repeat 戦う男たちは 故郷の女たちに 戦う女たちは 信じる男たちに ☆Repeat 人は いつまで 殺し合いの 歴史を 重ね続けるの だろうか? 人の革新は 夢 なのだろうか? ――君は何に賭けるのか 何を残すのか?―― < 前のページ次のページ >
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