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「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。 批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。たしかに哲学でも大がかりな内戦が勃発することがあるだろう。(たとえば観念論と実在論の対立)。 しかしそれは戦いといっても冗談の域を出ない戦いだ。みずからは力ではないのだから、哲学が他の諸力と戦いをまじえることはありえないのである。 しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。 また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。相手に向かって言うべきこともないし、伝えるべきことももちあわせていないからだ。哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。 哲学以外の諸力は私たちの外のあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで進入してくる。だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることにもなるわけだ。それもまた哲学の効用なのである。 『記号と事件 1972‐1990年の対話』 母語は必ずしも母国語ではない。すなわち国家を前提しない。そして、しばしば父祖の地の言語とも合致しない。この流浪の世紀において、乳とともに受けとる言葉は、しばしば政治的共同体との親密な一体性を喪失して、一箇の身体によって担われ、一身とともに移動する。アーレントにとって「自分自身の言語」は、流浪を通じて「冠たるドイツ」国家から振るい落とされたドイツ語であり、仮設されつづける「故郷」の言葉として、口にし耳にするとき言い表しがたい喜びを含む感情をもたらす「ドイツ語」として、それは保持されたのである。 『増補 敗北の二十世紀』P82 アーレント ヒトラー以前のヨーロッパですか? 何の郷愁もありません。残ったものですか? 残ったものは、言葉です。 ――それは、あなたにとって重要な意味をもちますか。 アーレント 非常に重要です。私はつねに意識して、母語を失うことを拒んできました。・・・・・ アーレント 母語と他の言語との間には、とてつもない差があります。私に関してはそれは実にはっきりと言い切れることなのです。ドイツ語では、私はドイツの詩の大部分を暗唱でき、それらの詩はいつも私の記憶の背景となっています。それは二度と達成できないことなのです。・・・・ドイツ語は残された本質的なものであり、私も意識していつも保持してきたのです、 ――もっとも辛い時期においてもですか。 アーレント いつもです。あの辛い時期には、どうするべきかと考えました。狂ってしまったのはドイツ語ではないでしょう。さらに、母語に代わるものはありません。 同上P78 ![]() ソンタグはラディカルなことを周到に話す。単刀直入な内容をじつに準備万端、伝えようとする。心が弱くなると読みたくなる本があり、会いに行きたくなる場所や人がある。オレにとって、多くの人がそうであるようにスーザン・ソンタグはそういうタイプの書き手である。遠いところでひとりでながいことがんばりつづけているお姉ちゃんみたいな。 「なにもない」なにかを見ることは、やはりなにかを見ていることであり、やはりなにかが見えることなのだ---たとえそれが自分自身が期待しているものの影であるにしても。充満を知覚するためには、それを浮き立たせる空虚について鋭敏な意識を持ち続けなければならない。逆に、空虚を知覚するには、世界の他の領域を、充満したものとして把握しなければならない。P18 これは芸術における1969年当時の現代性を語った「沈黙の美学」からの引用だ。 「沈黙」は必ずその対立概念を含み、対立概念があることによって成り立つ。ちょうど「下り」のない「上り」はありえず、「右」のない「左」がありえないように、沈黙を認識するためには、音あるいは言語を取り巻く環境を認識しなければならない。沈黙はただ単に言葉と音の溢れた世界に存在するだけではなく、あらゆる任意の沈黙は、音によって貫通された時間の拡がりとして、そのアイデンティティを持つ。 同 こうした認識が、次のような考えを生む。 本物の空虚、純粋な沈黙に実用性はない---概念的にも事実としても。たとえ芸術作品がその他の多くの事物が備わった世界に存在するという理由からだけでも、沈黙あるいは空虚を創造する芸術家は、なにか弁証法的なものを産み出さなければならない---充満した空虚、豊かな空虚、共鳴する沈黙、あるいは雄弁な沈黙を。沈黙は依然として、不可避的に、発話の一形式(多くの場合、不満あるいは告発の形式)であり、対話の中の一つの要素である。 ソンタグはわかりいいことをわかりにくくいう、格好イイコトをカッコ悪く言う名人だ。わかりやすいことを、わかりにくく読み手に判らせると言うことはすごいことだ。オレたちが簡単だ、当たり前だとどこかで思ってしまっていることを、確認し点検して、確かに間違ってはいない、と言ってくれる人。オレ個人的には「お前は考えろ」と言っているような気がする。わたしの言っていることが判る? このホントウの意味があなたにわかる? じゃ、考え続けなさいみたいな。放置プレイのようだな。たとえばこの文章、意味判る人も判らない人もいるでしょうが、オレには鳥肌立つほど勇気を与えてくれる。表現をしている人や、ただ普通に生きている人、人と話をする人、現代芸術家、音楽家、演奏家、他にももっと無数の人たちにおおきな力をあたえてくれる思考だと思う。20世紀を考え、行動して生きたえっらい姉ちゃんである。で、人は生きていると言うだけで、そのこと=生きていること、を表現しているのであるとオレは思っている。 ソんなソンタグ写真集googleセンセイ提供。 ※ラジカル 1 [radical] (形動) (1)過激なさま。極端なさま。急進的。 「―な行動」 (2)根源的であるさま。 (名) ⇒遊離基(ゆうりき) 三省堂提供「大辞林 第二版」より 『中央公論』2005年2月号 特集「曲がり角に立つ日本宗教」 戦後からつづく日本の宗教的空白・真空にたいして創価学会だけが正面から向かい合ってきたという山折哲雄「戦後の精神的空白と創価学会」は説得力があると思われる。 上田紀行、島田裕巳、宮崎哲弥による鼎談「気概ある層たちよ、オウム以後の沈黙を破れ」は宗教的なものの必要を訴える。仏教を中心とする宗教者たちの“学問としての仏教”からの活動の活発化を求める。 世田谷の大吉寺、直木賞作家でもあり浄土宗大総本山増上寺法王の寺内大吉氏は、世俗的観点からタフに現在を喝破しつつ、浄土宗の今後を見る。 宗教性の重要さを認識し、現在の生活をよくよく考えてみる必要がある、という河合ハヤ雄。 特集の最後を飾るのが毎日新聞学芸部記者による「『精神世界』の現場から」と題されたルポ。カジュアル化したいまや精神世界ビジネスが安定期に入ってきたと伝える。 総じて日本では宗教が世俗の言葉で語られていないと思う。もっともわかりいい寺内氏の話も最終的には「浄土宗」内での業界話みたいなところに落ちている。あともうひとつ同特集の中に創価学会の現会長へのインタビューもあるがこれもまた部外者には妙な疎外感しか与えない。 宮崎らの鼎談にあらわれる「学問としての宗教」の活発化がいちばん必要なことなのか、という印象。いづえれにせよ世俗の脳みそにじつはバカにされている宗教を語るに足るものとして見直させる必要があるだろう。そのためには仏教やイスラムよりはキリスト教を学ぶのがよさそうに思える。そうしないとムダに精神的な議論になりはしないか。そういう意味で山折論文の日本においては創価学会こそキリスト教に匹敵する戦略をもっているという指摘は興味深い。 多くの日本人は宗教をさっさと乗り越えるべきものくらいにしか思っていないのではないか。それは宗教をプライベートなものとしてみて社会的なものと考えられないことが土壌にあるだろう。オウムはそのプライベートな部分を取り込んだわけで、精神世界系もそうだ。してみるとやはりわかりやすくて身近なキリスト教から考えてみる必要がありそうだ。 社会党委員長の多くがクリスチャンだって知ってました? “国民や民族をひとまとめにしたり、被害者たちをひとまとめにした茫洋とした議論はやめるべきだ。被害は必ずや二者関係において発生するからだ。 国家や民族や被害者集団をリアルなものとして妄想するから、そこが見えなくなっているだけなのだ。そして被害者は生きている。 だからここでは〈目には目を、歯には歯を〉という原則以外は無意味なのである。” 小泉義之 『弔いの哲学』 P62 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最後の一文は個性的な志向が出すぎな気がするが、上の部分はいかにも哲学者の言葉だ。 ![]() 社会的状況にコミットするときいろいろなやり方があるだろう。社会学者は(北田にせよ、宮台にせよ)事象を外から眺める。60年代が吉本隆明的な思想者に代表されたとして、80年代は糸井重里でいいとして、90年代の後半からを社会学者が代表しているというのは分かり易い話だ。 『動物化するポストモダン』で、東浩紀が哲学者としてオタクという偏狭を題材にいまを語るいい仕事をしたと思う。ふつうの人のための哲学がない。鬼束ちひろの曲に衝撃を受けるような(?)哲学者として私は小泉義之という人に期待する。「二者」から語られる社会は、ただ自分はこう思います、というところを超えてどれだけのひとに届くだろうか。
丸山眞男の実質的デビュー作『超国家主義の論理と心理』(『世界』岩波書店1946.5)。これによって彼の名前は知られるようになり、なおかつ現在までつづく名声がある。のかどうかは正直わからん。丸山氏は1945年9月に復員。『丸山眞男集〈第3巻〉』(岩波書店)に収められているがじつに全20ページ。戦時日本の論理を探りそこにあらわれた心理を暴く日本が誇るインテリの登場。 従って国家秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。P22 この言い切り。下線部分は元は傍点。 「私事」の論理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に進入する結果となるのである。P23 「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体真善美の極致たる日本帝国は本質的に悪を為し能わざるが故にいかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである! P25 これはしかし学者の言葉なのであろうか。「微妙に交錯」とは。。。まあ言わんとするところはわかるんだけど。 彼らに於ける権力的支配は心理的には強い自我意識に基づくのではなく、むしろ、国家権力との合一化に基づくのである。 P27 従ってここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的職能よりも天皇への距離にある。 P28 天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於いて万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心には点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦横の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。 P35 たいへんわかりやすい。図にすらできるニッポン人民の心理。まるで浅田彰の『構造と力』を思い出しますな。日本人はこういうのに弱いのだろうか。すなわち天皇陛下はその人格ではなく万世一系の・・・。いやそれじたいには価値はないのである、と丸山氏は言うわけなんだな。 丸山眞男という人の論文? に私がイマイチ入り込めないのは基本的に日本人をヨロシクナイモノとして見ているように思える点にソンしている。立脚点。どこに立っているのか。それが問題だ。基本的にニッポン人民は丸山氏がいうように弱弱しくあいまいな心性をもつてゐる。しかしそっからだ。そこからはじめるのだ。なぜならわれわれこそがその縦軸と横の広がりを成立せしめているからである。「論理と心理」なんとわかりやすい概念だろうか。 「二千六百年前の事実がこれを輪切りにすれば中心の年輪として存在してゐる。だから神武天皇様の御代のことは昔話としてではなく現に存在してゐる神国日本の使命と国民の覚悟」(山田孝雄『中央公論』1943.9) 戦中の代表的な考え方なのであろうか。もちろんここで「現に存在してゐる神国日本の使命と国民の覚悟」と言われたとき「神国日本の使命」と「国民の覚悟」という2つのものがあたかも1つであるかのように自然に、または無意識的に結び付けられていることが重要なのであるだろう。 以下、丸山氏のまとめ。 日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。 これが丸山氏の絶唱であるとするならば美しい。が、しかし私にはあまり気持ちのよくない限定されたプロパガンダのように聞こえてならない。その「絶対性」は本当に失われたのだろうか。いったいどこから「自由なる主体となった日本国民」が現れてくるのかわからない。この結論部分はあまりにもわかりやすすぎるテキトーなものだ。まるで戦時中はどこか日本国民とはべつの場所にいて、べつの論理体系でものを考えていた人が、自由にものをいえるようになったからさも「当たり前のことだが」というような口吻でいっているような感じだ。 ここから、なにかが始まるのだろうか。縦軸の絶対性はまだ失われてはいないだろうし、横の無限の広がりも同じではないだろうか。ただそれは「八紘一宇」のまた「大東亜共栄圏」という目的を失っただけで、その構造はなにもかわってはいない。 ただ、それはたとえばペリーの黒船のようになにかが突然どこかからやってきてわれわれの世界を変えたけれど、われわれの内面はまったくかわってはいないというようなもの。この丸山氏が示す「まったく別の体系からの視点を示す」という態度はあたかも優れたインテリのとるべき態度であるかのように思われている節があるけれども、筑紫哲也とかさ、それはただ当事者たる日本人になることをこばんでいるだけなのではないだろうか。権力の中心にいることなく、心のそこではそれを蔑みながら発言する輩は多い。そういう左から右を一瞥するような視点はじつのところわれわれをなにも変えることはない。 丸山氏のフルトヴェングラー崇拝は有名だけれど、それがアフォらしいのはあまりにも無邪気に「音楽」というなんの現実性もないものを自分の内面性にひきつけて嬉々としておのれのおかれた立場を省みないからである。彼の有名な『自己内対話』も、そうした自分の内面性をまったく変革する気はない、それでお前らになにも言われる筋合いはない、という他者否定の彼の内なる論理を、彼自身がまったく否定できていないことを如実に示すからだ。 ![]() ジャック・デリダ著 藤本一勇訳 『アデュー―エマニュエル・レヴィナスへ』(岩波書店・2004) この世ならざるところへいったエマニュエル・レヴィナスヘ、同じくジャック・デリダより贈られた言葉と思考。デリダも死んだ。レヴィナスももういない。 この書物がレヴィナス追悼としてではなくほかならぬデリダを送るために編まれたという事実はぼくらにとってとても大きいような気がする。死せる二人の偉大な思想者。生きるとは生者よりも多くの死者によってとりまかれている。レヴィナスのつむいできたあまりにも難解な他者の思想。いつか、そうだな孫ができるなんてことがもしあれば、そのときまでにはレヴィナスの言葉を理解していたい。そのためにはここにおさめられたデリダの言葉がずいぶん役に立つだろう。少なくとも100年越しの思考を残したレヴィナス。前言撤回、それは「他者を迎え入れる」ための哲学だ。 なんだかドラクエとかFFでもっとより大きな後に来る難関のために、いまはまだ使えないアイテムを後生大事にもっているように、ぼくはレヴィナスの書物を溜め込む。たまに開いて「レヴィナス」がそこにいることを確認する。たまにわかる言葉があれば自分のノートに書き付ける。それは世界の言葉である。世界が語りかけてきたぼくの言葉となるべき言葉であるだろうから。 歓待に関するレヴィナスの言説から、なんらかの法権利や政治を演繹することはできない、と仮定しよう。つまり、私たちは身近な出来事であれ遠くの出来事であれ(中略)、今日の特定の状況における、あれこれの法権利や政治を演繹することはできない、と。そのように仮定した場合、基礎づけ、演繹、派生関係のこうした不可能性は、いかに解釈されるべきだろうか? それは意気阻喪のしるしだろうか? おそらく反対だと言わなくてはならないだろう。その欠陥の見た目の否定性、すなわち倫理(略)と法権利ないし政治とのあいだのこうした裂孔は、本当は、私たちを他の試練へと呼び招くだろう。そこにいかなる欠如もないとすれば、実はそうした裂孔は、法権利と政治を他の仕方で考えよ、と私たちに命じているのではないだろうか? P33 デリダがレヴィナスを解説してくれる。「迎え入れの言葉」(96年ソルボンヌ大学での講演)と、1995年12月パンタン墓地での弔辞。いずれも冥福を祈るけれど、ぼくらの側に立ちつづけてくれたようなデリダの死はとても痛い。さようならデリダ、そしてレヴィナス。また会うときまで。あなたたちの言葉をぼくらが活かせると信じたい。 < 前のページ次のページ >
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