![]() 「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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○吉本隆明「日本のナショナリズム」(1964.6.15)から書き抜きメモ。 『現代日本思想大系 4 ナショナリズム』(筑摩書房)の編者解説として初出。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 愚劣さは愚劣さの鏡である。馬鹿を思想的に生かしているのは、思想的な馬鹿である。誤謬を組織的に生かしているのは「無関心なものの無関心な共謀」である。「連帯」論を盛り場のバー、サロンの妥協として生かしているのは、孤立者のたたかわない孤立を写す鏡である。 ところでわたしの鏡は何であったか! そして現在何であるのか? p158 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ わたしを戦後つきうごかした思想的な衝動は煮つめられた現実(戦争)のなかでべつだんちがった頭や行動をもっていなかったものが、こころの底に、このような対照的な核をかくしているという事実であった。これを他国の体験にもとめることはできない。またこれを無視したインタナショナルな思想は、生成と消滅とを交代にくりかえすにすぎないという確信であった。 p60 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (写真はイメージ)古典インタナショナリズムと産業報国会とは、知識人ファシストと知識人スターリニストを相互に写す鏡である。しかし、大衆の生活思想や生活体験はそのままこれらの鏡に映されているものではない。大衆は写すべき鏡をじぶんのなかにもたず、それを支配者のなかに逆立ちした形でもっているのである。産業報国会と古典インタナショナリズムとの対立や相互移行は、知識人の問題であったし、げんみつには大衆そのものの問題ではない。大衆そのものの問題は支配形態の徐々な連続的な推移のなかに逆立ちした鏡をもつのである。 p162 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おそらく後年、昭和にはいってウルトラ=ナショナリズムとして結晶した天皇制イデオロギイは己のためには「天皇」や「国体」なぞはどうなっても仕方がないという心情をその底にかくしていたのである。明治においてはじめにたんなる裏面に付着していたにすぎない個人主義がひとつの政治理念的欺瞞にまで結晶せざるを得なかった実体をわたしたちは「天皇制イデオロギイ」あるいは「ウルトラ=ナショナリズム」とよんでいる。このような自己欺瞞は、大なり小なり、理念が普遍性を手に入れるためにさけることができないものである。 p165 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〈広瀬中佐〉(大正1)、〈水師営の会見〉(明治43)、「婦人従軍歌」(明治27) ・・・・・・このインタナショナル=リアリズムの裏面に、普遍ロマンチシズムの虚偽が付着していることに気づかないためである。わたしは知的大衆としての知識人と大衆そのものが、この普遍ロマンチシズムの虚偽に気づく過程を、かりに「自立」とよぶのである。 p168 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治期の大衆「ナショナリズム」の心情の表現は、主題に外化されたものよりも、大衆の心情そのものの核に下降した表現に典型的な表芸があらわれ、その典型によって大正期の大衆「ナショナリズム」の表現に接続された、ということができる。 p171 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〈青葉の笛〉(明39)、〈夏は来ぬ〉(明29)、〈すずめ 雀〉(明34)、〈七里ヶ浜の哀歌〉(明43)。 このように眼に見えるような形で政治あるいは社会的な主題が喪失したことは、大正期の大衆「ナショナリズム」の表現の特徴である。 〈叱られて〉(大9)、〈浜千鳥〉(大8)、〈背くらべ〉(大8)、〈蝉が鳴る〉(大8)、〈かなりや〉(大7)、〈雨〉(大5)、〈てるてる坊主〉大10、〈7つの子〉大10、〈赤とんぼ〉大10、〈夕焼小焼〉大12、〈花嫁人形〉大12、〈あの町 この町〉大14。 むしろ、これらはそれなりに成熟期に入った日本の資本制社会の物的な関係のすさまじさ、高度化と停滞の逆立ちした表現にあたっている。178 この大正期の大衆的「ナショナリズム」の表現にいたって、ついに「御国の為」や「身を立て名を挙げ」という当為は、まったく主題制を喪失するにいたった。178 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古典左翼が高々とらえたものは、天皇制は、ファシズムであるか絶対主義の範疇に属するものか、また、支配体系は日本資本主義であるか、封建的な残しをもった資本制であるか、といった程度のものであった180 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〈いおみやげ三つ〉昭6、〈たきび〉昭16、〈鞠と殿さま〉昭4、〈あの子はたあれ〉昭14。 昭和期の大衆「ナショナリズム」の根源的喪失と「概念化」を象徴する。 たんなる「概念的」に把握された心情の表現にすぎなくなっている。183 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ すくなくともこれらの歌曲はその時代の知識人からは軽蔑されながら口ずさまれ支配コマーシャリズムからは、広く流布される性格を見ぬかれて迎えられ、じじつ広い大衆が受け入れてきたものである。184 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 天皇制イデオロギイは支配層によって、もっぱら大衆の「ナショナリズム」の心情の一面を逆立ちした形で吸い上げながら、一面で「社会経済」的には大衆「ナショナリズム」の社会的な基盤(農村)を資本制によって現実的につき崩すという両面を行使したのである。188 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いまだかつて日本のアナキズムやスターリニズムは文化左翼の域を脱したことは一度もない。それは知識人の啓蒙主義の段階として考えられるにすぎない。188 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ここでも、支配者に一種の主題の喪失があったはずである。191 天皇制という軟体動物のような代物は、いうまでもなく大衆のアモルフな「ナショナリズム」の逆立ちした鏡であり、法的な規定に入ってくるかぎりにおいて国家権力に介入している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いまにしておもえば、わたしの敗戦体験のもっとも重要な核のひとつは、知識人「ナショナリズム」として思想化されていた日本のウルトラ=ナショナリズム思想が、その美麗なスローガンの裏面に醜悪な現実をもっていたという程度にすぎなかった。198 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 社・共を頂点とする戦後スターリニズム運動は、わたしの年代の本質性を生かすように存在しなかったし、いまも存在していない。しかし、わたしは戦後に生きたのであり、生きているかぎり、戦争の死者だけは非難することなく、その錯誤を自己媒体として思想的に生かすという方法を講じてきた。 ・・・・・・もちろんわたしの「自立」思想の展開が日本の大衆と知識人にたいして無限責任を負うという意志を前提としてである。201 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ井の中にあること自体が井の外とつながっている、という方法を択びたいと思う。 生涯のうちに自分の職場と家をつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配たいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに値する。ここに「自立」主義の基盤がある。205 それは、大衆「ナショナリズム」の土着化(裏目なしの地点への下降とその思想化による上昇)の立場である。206 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治以後の大衆「ナショナリズム」は、「ナショナリズム」概念自体を喪失しているところに、現在ナショナルな実体をおいている。210 この大衆「ナショナリズム」の現状は、いぜんとして・・・・・戦後天皇族の存在の仕方に、逆立ちした鏡を見出している。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ページ数は『吉本隆明全集撰 3』から 他に『吉本隆明全著作集13』にも収録。
by maru-eo
| 2004-08-21 14:53
| 日本浪漫派研究
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