「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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川内倫子『Cui cui』(2005.3) なにを表すのでもなく写真を撮ること。それに意味があるのかと問うのは不毛である。そうした行為自体はたとえ無意味であってもつねに・すでに行われているものだから。最近の写真集を見るとき、これは言葉で語られてきた「写真」ではないのだと強く思う。 いわゆる「写真を考える」という場合、見る側の好き嫌いが出るだろう。そこに写真家の志向や作家性を見るだろう。アジェの写真を見たり中平卓馬の文章を読み、その一連の写真の流れを考えるとき、けっきょく「写真という芸術」を目指しているのだなあと思い至る。 どれも写真史のためにどれだけ貢献したかでみてしまうのだ。そんなものいまもなお作られている途中なのだ、明日にも終わるかもしれないのだという事を忘れて。 この川内倫子の『Cui cui』は、そういうことを目指しているのかどうか自分にはわかりません、と言っているような気がする。芸術というよりは自己表現だという気がする。『誰も知らない』のお仕事くささも『うたたね』の戦略性もここにはない。ただ川内倫子という人が自分の身の回りにあったものや起こったことを撮るときにいかにも“川内色”みたいなのがまちがいなく出ていることに素人として驚くばかりだ。 きっとこれをまとめた写真家は「自分はこう見ました」ということを表現したいのではなくて、自分は何を見てきたか、あるいはどう見てきたか、を自分の撮った写真で確認するのだろう。自分が「撮った」のではなくて、「撮ってしまった」ものたち。それは良い悪いとは別のところで写真家の特権である。 写っているものを言葉に置き換えれば家族がどうしたとか、そのとき写真家の身の回りにあったもの、になるのだけれど、現像された時点で、どうしようもなく写真家が見たものそのままではありえない。写真史とか芸術としての写真という視点から見るとあまりにも弱弱しいけれど、だからなに? 実際に収められている写真は、開き直りとも思えるほどに意図や強さを感じさせないにもかかわらず、川内倫子である。きっとこういう写真集を見ることは同じ時代に生きている者の特権なのだ。堂々とした芸術表現や宣言はなにもないけれど、同じ空気を吸っている感じ。写真はそういう「感じ」をそのまま伝えるのにもっとも適したメディアだ。同じ時を生きている人が撮った記念写真。これはR・バルトの本にも出てこない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 撮っている自分を感じさせないことで、逆に作家としての個性を感じさせるということもある。という風に考えるとこの本は「私写真」という日本の写真家がとらわれているところから自由な稀有な証明なのではないか。写真評論風にいうと。
by maru-eo
| 2005-03-11 00:44
| 写真のお勉強
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