「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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大友良英・ニュー・ジャズ・クインテット 2002.7.25 大友(g)、菊池成孔(ts)、津上研太(ss,as)、水谷浩章(b)、芳垣安洋(ds,tr)という陣容。 いまジャズをするとはこういうことだ、と僕によくわからせてくれた盤である。先の週末は家から出ることなくまるで植草甚一がモダンジャズにはまったようにこれだけ聴いて2日間過ごした。 たとえばテナーで参加している菊池氏は、いま旬の才人である。であるが、僕個人はどうにも神経症的なところが●について好きになれなかった。エッセイや彼のソロワークも、ザヴィヌル・バッハは面白かったけど、彼が言ったまま、思っているままが作品として投げ出されているようだったから。誰にも聞かれなくても、読まれなくても、吹かれたまま、書かれたままそこにありつづけるような気がしたから。誰にも聞かれなくてイイ音など誰が聞くものか。 しかして、このもっとも本業であるだろうところのジャズ・テナーはどうだ。鳴り始めから(それは聴き手にとってはであって、演奏者にとっては「鳴らし始め」である)、ユニゾン、アドリブ、ノイズめいたトーンまで、彼は独りではない。つねに他の人がいて、そこに音の場が作られていく。一瞬たりとも独りの時間を許さない心地よい緊張感に充ちているではないか。 菊池氏にかぎらず、ここにあらわれた音やメロディーはどれも切れ切れでどこか分裂症気味である。だけれど、それはもはや当然だと思うのだ。これを聴いて、そのあとに何度も聴き返してしまったいまは。 ジャズはずっと偉大なスタイリストたちの独壇場で、ジャズ史というのはもうずいぶん長いことそうしたスタイリスト達の数珠繋ぎの様相を呈してきた。パーカー、マイルス、コルトレーン、オーネット、ドルフィー、エトセトラ・エトセトラだ。それ以来ジャズは偉人たちに踏みつけられるように、あたらしい出口を捜したり、それらの繰り返しのようなことをしてきたのではなかったか。もう飽き飽きなんだよ、またあまりにも期待はずれなんだ、と思っていた。 ここに行われている大友NJQによる演奏をわかりやすくいえば、もはや弱々しくなってしまったジャズ・ミュージシャンたちの、それだからどうしたゴラァー・ジャズである。ジャズは対話である。ジャズの音は言葉である。シンフォニーでも、調和でも、美しいメロディー、奇抜なアイディア、等々だけではダメなのだ。もちろんそれも必要な時もあるけれども、それらの諸要素はあくまで適宜要請されるだけなのである。 それと同じように、テナーにコルトレーンばりの朗々とした酩酊ブローも、マイケル・ブレッカーのような大人の完璧さも、つねに必要ではないし、始まりにまず必要なものでもないのだった。個人として弱く、それにもかかわらずジャズを志向するとはどういうことか。 答えとしてあるのは、音によるガチンコの対話であるだろう。他人の音を聴き、それを凌駕するような自分の音を出すこと。出しつつ、発せられた他人の音に耳を傾けなにがしかの問いを感じて、次々とあたらしい答えを求め、解を出しつづけること。ジャズが他の音楽にもましていま必要とされるならば、こうした音になった個人的な問いをいつまでも出せるように準備しつづけることしかない。神経症でも分裂病でも生きていくのだ。そうしてもし彼や彼女がジャズ・ミュージシャンであるなら、そうした問いと答えがつねに爆裂的に同居する場所を出現させつづけることを目指せるだろう。 ジャズは対話である。つねに答えが求められ、すぐにつぎの問いが発せられる。まるで始まりも終わりもないようなそうした場が、いつかはじまり、いつか終わるというのは奇跡的に素晴らしい。そうした場の歴史を、自分自身の音でもって再び始めようとした何人かのジャズ・ミュージシャンがいまもいて、対話が行われ、いったんの終わりをみたという記録がこれである。 そこにいくつの問いがあり、答えがあり、どれだけが答えられ、また答えられなかったか。そうしたことを考えてしまったときに、聴き手もまた、そこで行われたジャズに参加していたのだと僕は信じているのである。コルトレーンの音がヤク中の犯罪者を娑婆に戻したという話は知られたエピソードだが、いまや皆がヤク中のようなものだ。ソー・ワット、それがどうした? だからこそ鳴っているんだ。いま鳴らされた、それがどうしたゴラアー・ジャズにみんなで耳をかたむけよう。 1.スィート・ピー~ゼア (W・ショーター/大友) 2.フラッター 大友 3.ハット&ベアード (E・ドルフィー) 4.ユリイカ (J・オルーク)
by maru-eo
| 2005-05-11 23:51
| JAZZ
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