「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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桂枝雀 ■枝雀「世界」落語の目指すもの、または枝雀落語で泣くココロモチ 語り方の特徴として、高い声、早口、繰り返しと少しの変化、そしてのばし。これだけでも他の噺家との差別化は充分だっただろう。が、桂枝雀はもっと違ったものを目指した。目指したのか、目指さざるを得なかったのか、はよくわからない。 ヒトは笑う唯一の動物であるとして、ヒトは笑うときは楽しさを表現するのだろうが、ではそれ以外の時は悲しいのだろうか。 現実の枝雀師匠は英語落語を開始して世界を旅した。異国の地で落語を広めた。 M2のマクラでは南半球の人たちは逆さで歩いているというような話をする。 M3ではモチが好きすぎてモチの気持ちがわる、とも言う。ヒトがモチになってしまうこともある。 ここには大きな意味があるだろう。 たった一人で社会を描く落語という表現は、社会を共有しないかも知れない世界を目指した。 聴き手は(オレは生どころか映像でも師匠の落語を見たことがないので)枝雀という一人の向こうに世界を見る。 一人は世界を表現することが出来るか否か。たぶん出来ない。どんなに優れた芸術作品も、一人一人の受け手を感化して、世界を少しでもそのように表現するのに過ぎない。 枝雀落語は、すべてを疑う。 何度でも繰り返されるような「お前の話は笑えるような笑えないような感じがある」という反省。 笑顔の作り方を真剣に考えすぎて、プライベートでは笑えなくなってしまったという逸話。落語家は笑わせることを考えればよくて、自分が笑うことなど考える必要はない、というのは桂枝雀にはあたらない。 学生落語や話を覚えてただ再現するだけ、いわゆる落語というものはそういうイメージがある。 それを優れた噺家は、たとえば志ん生はジャズ的にアドリブを駆使する。文楽はクラシック音楽のように全体をがっちりと構成する(いまどき噺家のうまさというのは、そこまでは求めないのかも知れない。志ん朝はオーソドックスだが、それは志ん生の息子にして「文楽を目指した」という言葉を残している) 枝雀落語には、落語というよりも、落語というものはなんであるのかを考えすぎて、メタ化していく作品世界がある。 それでもメタ化していってしまう枝葉末節を抱え込んだまま、枝雀落語は落語として疾走する。演者のどんなに大きな逡巡であってもすべてをひっくるめての高座である。 枝雀がそこにいて、落語を一席ぶつと言うことは、そういう複雑な世界の仕組みをたった一人で笑いに変える偉業ではないだろうか。 枝雀落語が生み出す笑いが少し遅れて涙も運んでくるのは、落語という表現やそれを超えてたった一人が大勢のヒトを笑わせるということを考えてしったときにやってこざるを得ない、一人の人と世界のあいだにあるズレが、悲しみを生み出すからだろう。世界と一人のあいだで、彼は目の前に居るヒトだけを笑顔に変えることができる。フツーはそんなこと悲しいなんて思わないのに。枝雀一人、座布団のうえで、爆笑を生み出しながら、考えている。 1.鳴物(シャギリ) 2.つぼ算 35.28 平成元年4.27歌舞伎座 3.蛇含草 27.31 同4.27同
by maru-eo
| 2006-04-01 22:19
| 落語
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