1906(明治39) 長崎県生まれ、1953(昭和28)年に死去。
-------------------------------
「わがひとに与ふる哀歌」
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くこと希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘ふものの何であろうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒(つね)に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讃歌を
あヽ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如(し) かない 人気(ひとけ)ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆んど死した湖の一面に遍照(へんじょう)さするのに
************************
1935(昭10)処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』所収。
1934年『コギト』に発表。萩原朔太郎が激賞、翌年に第二回文芸汎論賞を受賞。
「かく誘ふものの何であろうとも/私たちの内の/誘はるる清らかさを私は信ずる」
「いま私たちは聴く /私たちの意志の姿勢で /それらの無辺な広大の讃歌を」
特に上の文などは、読む人によって好悪が分かれると思う。全編に無力感と、微妙なポジティビティー(積極性)が漂っている、ように思う。太陽を中心とした自然の中でわがひとに歌ううた。1935年3月には『日本浪漫派』が創刊。
みなさんはどう読まれるでしょうか。