「定常状態ーを越える」べく 「○」と何人かが音楽全般ほかよろず語り下ろし中!! / 「すべての表現するココロに捧ぐ」べくお送りしています つねに更新中!maru1978eonta@gmail.com!
by maru-eo 生きてく日々のメモ
文脈を参照して内容を割り引くことを「批判」と言います。
批判というと日本では攻撃と勘違いされがちですが、違います。 批判とは、隠されていた前提を明るみに出し、前提を取り替えると成り立たなくなることを証明して見せる営みのことを言うのです。 ●○●○●○●○●○● 宮台真司 07年12月22日 カテゴリ
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吉田秀和、1914年生まれ。 いま数少ない日本人の西洋古典音楽の評論家。その代表。 その吉田秀和氏が7月28日付けの朝日新聞夕刊で長期連載をつづけてきた「音楽展望」を休載している事情を語っている。 「音楽展望」は加藤周一の「夕陽妄語」と並んで朝日新聞を代表するコラムである。 この連載に関して、なかには編集者の評判は良くないとか一番良い場所を陣取りつづけやがってとかつべこべ言う人はいるが、しかし音楽評論でこれだけの仕事を続けられる人がいるだろうかと考えるといないのだ。 吉田氏の書いてきたことは、日本人として西洋音楽を聴くとはどういうことか、という意識を基底にしてきた。クラシックのレコード評や演奏評は日本では彼がその基本を作った(あらえびす=野村湖堂とかはいたが)といって良い。 7月28日の聞き書き(←たぶん)は昨年亡くなられた奥さんを中心として、氏の評論活動の始まりと現在進行形の休筆を結ぶ貴重なものだ。 氏は、1950年代にアメリカとヨーロッパを旅して現代音楽の勃興期とフルトヴェングラーなど西洋古典の神髄に触れた(その模様は『音楽紀行』(中公文庫)にまとめられている)。後者の神髄うんぬんは文学や絵画でもよくあるだろうが、前者のアメリカでつぶさに見た現代音楽の表現は吉田氏の音楽に対する考えに新しい視点を加え豊かにした。 いまもむかしもおそらく日本人の西洋古典音楽(いわゆる「クラシック」)への見方はたいして変わっていないと思う。海の向こうの本物と、こちら側の二流品。二流がいかに本物に近づいているか、クラシックの評論ではいまもそういう視点だし、それ自体は当然だと思う。 しかし、演奏家はいざ知らず評論する者の場合の問題は、自己の視点の中心をどこにおくかである。海の向こうの彼岸を眺め続けながら、振り向きざまに此岸の二流をなで切りにするような態度は正しいのだろうか。 借り物の表現や演奏はいつか本物を越えるかもしれないが、借り物の視点から行われる評論はいつまでも借り物のままだ。 吉田氏はその矛盾を越える視点を提示し得ているとは思わないが、どこまでも矛盾を矛盾のままに追求し続けた。 永井荷風を題材にした「荷風を読んで」(『ソロモンの歌』朝日文庫)などは日本人の表現や芸術とはどういうものか、を問う好エッセイだ。氏は西洋と日本の違いを問い続けるうちに音楽を離れ、絵画や文学者へ向かっていった。 個人的には、日本人とクラシック音楽を考える時きっと評論という立場からは彼岸と此岸を結びつけることは出来ないと思う。その代わりにいま演奏家が彼岸に住み、考え演奏をつづけることによってその距離をないものにしつつあると思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「いまは体の半分がなくなったよう」で「オルフェオとエウリディーチェの神話のように、黄泉の国に行って妻を取り戻せればと、本当に思う」という言葉からは、どうしても江藤淳を思ってしまう。江藤氏は自死したのだったが。いま吉田氏を力づけることが出来るのはどんな音楽なのだろうか。あるいは音楽ではないのか、そんなものはないのか。いずれにせよ、休んでいた筆がまた動き出す日を待つ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文筆家の写真というものはスキャンダリズム以外に載せる必要がどこにあるのか、僕に はわからない。必要以上に効果的に扱われているような気がする。
by maru-eo
| 2004-08-05 22:46
| クラシカルM
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