(前略)
その夏のある日曜日、ラジオの録音の仕事をすませて、
夕方帰ってきて、
一とッ風呂浴びてから、
茶の間でひとりでビールをのんでいたら、
藤棚の風鈴が競争でさわやかなすずしい音を
たてている。
死んだ若いともだちのおとうさんの好意で、
この風鈴は鳴っていると思ったら、
なんだか泪がこぼれそうになってきた。
改めて感謝がしたくなって、
それにはまたおとうさんいま頃なにをしているだろうということもあって、
電話を掛けたらおかァさんが出てきて、宅はいま湯にまいっておりますという。
一瞬、下町の銭湯の湯ぶねにつかっているおとうさんが目にみえてきて、
なんだかほんのりした気分になった。
(後略)
『寄席紳士録』(平凡社ライブラリー)あとがき
これまでに読んだアンツルさんこと安藤鶴夫氏の文章のなかでも、とくに好きな一節。下町の夏の描写に込められた、清々しいはかなさ、といったようなものが心をうつ。
清々しいというのは、強いことなんだな。しかも同時に繊細なんだな。それでいて、なお、はかないということはいったいどういうことなんだろうか。と最近よく考えます。